可能だからといって許されない治療もある。

■2007/04/12 (木) 医学の進歩でさまざまな治療が可能になってきた。特に移植と不妊治療の進歩がめざましい。移植についても容認できるかどうか、受け止め方により、そのボーダーラインが異なっているのは、最近の病気腎移植の物議で明らかになった。

そして、不妊治療の面でも、代理母出産で子供を得た某芸能人の訴訟があり、不妊治療のパイオニアでもあるN先生が、凍結保存精子を利用した、死後の受精卵移植の成功を公表され、さらにボランティアの代理母を募集したいとメディアに述べられた。子供を持てない苦しみは理解できるし、可能な範囲で医学は福音になるべきだと思っている。しかし、可能だからといって、患者に提供する治療の境界線は、目の前の困っている患者を助けたいという一念に左右されてはいけないと思う。倫理の問題やその患者以外の社会にあたえる影響を考えれば、一家族と一医者だけで、可能だからといって行う治療を拡大していっていいのだろうか。その結果おこりうる全ての事象に対しての、全責任をもてるのだろうか。治療の限界は単に技術的なことだけで決められるものではないと思う。
N医師のされてきた仕事は多くの女性に幸せを与えてきたが、それでも最近のN先生の仕事は医者の範疇を超える域に踏み込まれてしまっているように思う。
N先生といい、宇和島の先生といい、良識も学識も高い方たちが、あまりに患者の側に立ちすぎて、冷静で公平な観点をなくされてしまっているように思えてならない。一部マスコミは患者の側に立つ医者をヒーローと持ち上げるかもしれない。腰の重い学会や多数の医師の見解を患者第一でないと非難するかもしれない。
でも、私は思う。患者サイドの心情に入り込み過ぎて、医者個人の冷静さが失われれば、結局はその弊害が患者さんに戻ってくるのだと。常に平常心と客観性を失わないこと、もしそのような態度を取れなくなってしまったら、自分はもはやその患者の治療から撤退して、他の信頼できる医者の手に委ねるようにする。これが私のポリシーだ。