哲学者からのありがたい言葉。

■2006/04/16 (日) 最近週刊新潮がときどき光る取材をしてくれている。今週号は哲学者池田晶子先生の死に対する名文が掲載された。哲学というと非現実的な遠い存在のように思うが、今週号の「上手に死なせて」は哲学と無縁の一般人の心にも響くものと思われる。読みながら心で拍手喝采を送った。

(以下はじめの部分は概略)
例の射水の事件のことを取り上げ、院内の確執は別として、この手の事件がおこるたびに「医者は割りに合わない仕事」と同情。殺そうと思って治療に臨む医者などいるわけがない。安楽死尊厳死、延命と救命といった言葉の定義ばかりが取りざたされるが、それらは言語による事実の規定である。事実としてはその人間が死ぬだけである。とあり、

(↓に注目、あまりに名文なのでほとんど原文のまま)
死ぬだけというのが問題発言となるのかもしれないが、生きているのが当然なら、死ぬのも当然のことだ。その当たり前に当たり前として対処できなくなっているのが現代人である。定義を求め、文書で意思を確認する。そういう「手続きを経なければ普通に死ねなくなっている。それが普通だから当たり前なことが問題になるのだ。(中略)死は本来自分の意思を超えた出来事であり、われわれは自分の死を意思することなどできないのだ。(中略)死に方と死は全く違うことなのに、安楽死尊厳死の議論で見落とされているのがこの点である。自分の死に方は自分で選ぶと人は言う。それが人の尊厳だと。しかし死に方は選べても死は選べないのだ。死は人間の意志と理解を超えた出来事なのだ。(中略)かつては人の死を看取ることはもっとさりげなく行わていたはずだ。お互いや周囲の間にあうんの呼吸のようなものがあったはずだ。医師を確認し、文書の捺印するなど野暮の骨頂である。なるほど現代人の多くは病院で死ななければならない。だとしたら、いかにスマートにそれを行えるかが、医者の力量なのではないか。(中略)密室で何が行われているかわからないというなら、全てオープンにして今わの際に苦しんでいる人をどうすればいいか自分で判断してみればいい。それがどんなに大変なことか、皆で実感してみればいいのだ。
本質的な問題を自ら考えることをせずに、医者ばかり攻めるなら、医者のなり手がいなくなるのは目に見えている。そのとき困るのは我々なのである。

医療スタッフにも一般の人にも広く読んで欲しいエッセイである。