今の医者は太平洋戦争末期の兵隊か?

■2006/10/20 (金)

奈良の事件で警察が介入?医学的な見地からみると「狂っている」といわざるをえない。医者の意見もなく介入を決めたのだろうか?介入も必要と助言した医者がいたのだろうか。(いたとしたら、救急にかかわったことや臨床の経験がなきに等しい、ペーパー医者に違いない)

これまで私は、福島事件以後の医学会の反響が、司法も警察も、メディアも、できれば国民の見方も少しは変えてくれるという望みをもっていた。しかし、事態は悪化するばかりだ。
何をどうすればよいか、頭が混乱しているので、いつも冷静かつ大局的なブログを書かれている「新小児科医のつぶやき」Yosyan先生のブログをお借りしたい。少しでも多くの人に読んでもらいたいから。
今の医者の逃散傾向、萎縮医療に対しての見解について・・・のコメント。
↓↓↓
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20061020
(中略)
それでもなんとかこの要求に応えようと医者は健気に努力してきたと思います。ところが現実に断罪される事象を次々と目の当たりにさせられると、医者の心は重圧と疲弊に耐えかねて折れます。

無理な可能性のあるものには手を出さない。

結果責任を厳しく追及されたものの起こるべくして起こった反応です。実はこういう精神は医師としては恥ずべきものだとこれまでは考えられてきました。99.9%無理であっても、0.1%の望みに最大限の希望を託して努力するのが医療だと信じてきました。それが医師の使命であり、医師が医師たる所以と固く信じ込んでいたのです。

この高邁な使命感が医療を支えていたと思います。この士気の高さが激務と呼ばれようが、労働基準法の枠外の奴隷と呼ばれようが現場を支えてきた原動力だと思います。またこの士気が育まれたのは医学教育から現場にまで一貫して流れる気風です。この士気が音を立てて崩れているのが現在の医療状況です。

引用終わり。
報酬や休暇の問題を言われるが、それでもやはり医療の原点は「人を病から救いたい」気持ちなのだ。報酬が安くても、こき使われても、そして過酷な勤務が世間では評価されなくとも頑張ってこれたのは、患者家族の笑顔であり感謝の言葉だった。批判や疑惑一杯の患者とはもう向き合いたくない。ビジネスライクに、医者を商売としてとらえ、単なる一サラリーマンとして相応の報酬と妥当な休みをいただくことに徹すれば踏ん切りがつくのかもしれない。これが今の私の本音。